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2002年10月25日。
この日はきっと、木下詩野、そして彼女の歌の世界に魅了された人達にとって、特別な日となるに違いない。
彼女の単独ライブが決定したということをHPで知った瞬間、私はそう直感した。
いささか大袈裟な表現だが、そう感じたのは事実だ。事実、ライブの告知の情報をHPで知った後、某紙の原稿の締め切りが数時間後に迫った深夜の作業中にもかかわらず、私はウオッカの小瓶を空け、一人で祝杯をあげた。
ふだん私は文章をつむぐ時、それが小説であれ、某かの商品のキャッチコピーであれ、アルコールはもちろん、時には飲食を断って、自らの感性をぎりぎりまで研ぎ澄ましてから作業に向かう。
それは、自分の作品に触れて下さる方への誠であり、また下手をすれば怠惰に堕してしまう「表現」という、完成が無い作業への戒めでもある。それにもかかわらず、私にとって、絶対とも言えるタブーを犯して、強い酒の杯を仰いだのはなぜか?
それは、彼女の放つ歌の「素」の世界に触れることができると考えたからである。
以前のライブレポートを読んでいただいた方はご存知だと思うが、私は過去に彼女のライブに二回参加し、レポートを書いている。
その濃密な時間の中で強く感じたのは、彼女が一瞬一瞬に自分の世界を封じこめ、歌声を放つことのできる、シンガーであるということだった。
言うまでもなく、音楽は時間の経過の中だけに存在する芸術である。
一瞬一瞬に自分の世界を封じこめ、歌声を放つことができるということは、シンガーとして誠実であると同時に、オーディエンスに伝える彼女だけの「個」の世界を持っているということである。事実、彼女の歌声を通して伝えられた世界は、オーディエンスに至福の瞬間を与えてなお、余りあるものだった。
いずれも素晴らしいライブだったが、残念だったのは、過去に参加したライブ全てが他のアーティストのオムニバス形式のライブであり、彼女の歌の世界全てをうかがいしれたとは言い難いことである。
彼女の歌の世界に薄いフィルターをかけてしまったのは、一体なんだったのか未だに分からない。それは、ひょっとすると、出演するアーティスト毎に変わるライブ会場の空気であったり、また、個を主張することよりも、オーディエンスを楽しませようとするプロのシンガーとしての彼女の無意識であったかもしれない。
だが、今回はそんな障壁は一切無い。彼女の放つ歌の世界そのままに触れることができるのだ。そのことに私は狂喜し、仕事中にもかかわらず、タブーを破って強い酒の杯を仰いだのだった。
ライブ当日、私は友人達数人と渋谷で待ち合わせ、会場の三軒茶屋へ向かった。
三軒茶屋駅から、人々の生活の息遣いを感じることのできる商店街を抜け、談笑しながら歩を進めると、今回のライブ会場である「グレープフルーツムーン」はあった。
地下の会場なので、外からは中の様子を伺い知ることはできないが、瀟洒な作りであるようだ。
予定より三十分ほど開場が遅れたが、友人たちとの談笑にはちょうど良い時間である。
私は、ほぼ最後尾に入場したが、会場は既に満席であり、立ち見の人であふれかえっていた。決してゆったりとした状態ではないが、皆、和気あいあいとドリンクを手にしたり、談笑しながら開演を待つ様子は、非常に心地よいものだった。
どれくらい友人達と談笑を楽しんだだろうか? オーダーしたジンライムが体を暖め始めたころ、不意に彼女はステージに現れた。
オープニングは「美しい夜だから」
スローな優しい曲である。最初の第一声で、彼女の放つ歌の世界に包まれたオーディエンスは、誰一人として身動き一つしようとしない。彼女の放つ世界にオーディエンスの一人一人が共振しているのだ。
その様は、「聞きほれる」というよりも、彼女の歌を通して伝わってくる高次からの祝福を受ける喜びに、身を任せているように見えた。
緩やかに滑り出した後は、彼女はオーディエンスを楽しませることも忘れていなかった。
続いて飛び出したのはオープニングのイメージを覆すアップテンポな「PaPaDo 」そして「ラストドライブ」
ギターの荒井豊氏、サックスのファイアー渡辺氏、ピアノ&フルートの上野氏、そしてパーカッションの中里氏という 凄腕ミュージシャン達の音が冴え渡る中で、会場は彼女の歌声とともに、新たなグルーブに巻き込まれていった。
ヒートアップした会場が彼女のMCで落ち着きを取り戻した後は、再び 緩やかな時間が流れていく。「この愛にほほえんで」「月下美人」「海に抱かれたい」そしてキリンジのカバー曲「エイリアン」を最後に、一旦、ステージは幕を閉じた。
わずかな時間の後、ステージは再開。第二部の始まりである。白いドレスに身をまとった彼女がステージに現れると、オーディエンスの中から、ため息に似た歓声が漏れる。
第二ステージの始まりは、彼女のオリジナル曲「あなたと生きて行こう」そして「ヒーリングガーデン」
このころには、皆、彼女の放つ世界にすっかり身を委ね、心地よい時間の流れに身を任せていた。そんな心地よい時間に細い楔(くさび)を打ちこむように、彼女のMCが入る。
MCに先だって、いささか緊張し沈鬱な顔を見せた彼女は、わずかにうなずき、今は亡き彼女の姉「きのしたすみえ」さんの作った歌を歌う旨をオーディエンスに告げた。
大好きだった姉が亡くなってしまったこと、そしてその事実と向かい合おうと模索してきたこと。説明の言葉は少なかったのに、その後に続いた彼女の歌は決して彼女の辛い心情を吐露したものではなかった。
「すてきな夢を」「この世界に」「朝日の中でほほえんで」「悲しみは歌わない」
いずれも優しく、オーディエンスの一人一人を包み込むような声。気がつくと、頬に一筋の雫があった。私だけではない、周囲の人全てがそうだった。
オーディエンスが感極まる中、ステージを後にした彼女にアンコールの拍手が起こるのは当然のことだった。
完全にステージとオーディエンスが一体になったまま、彼女のオリジナルソング「HIMAWARI」が響く中、皆はそれぞれ、今夜、彼女がくれた祝福をかみしめていた。
「Song For You」
ラストの歌詞に乗って放たれた言葉は、彼女がオーディエンス一人一人を祝福する気持ちに違いない。
彼女が透明な歌声に乗せて届けてくれた祝福に言葉で礼を述べるとしたら、きっとどんな言葉を並べても足らないだろう。それでも私は言葉にしたい。
「素敵な歌をありがとう。そして出会ってくれてありがとう…」と
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